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​リクエストの多い昭和のヒット曲ベスト100

介護施設やデイサービスなど高齢者に人気の曲をご紹介。懐かしい あの歌この歌 それぞれの思いを乗せて・・・!

​昭和を代表する名曲の数々、特に印象に残る曲、リクエストの多い100曲を厳選しました。

それぞれのガイドブックに曲の解説や踊り方、小道具の作り方​など詳しく載っています。ご参考にしていただきますと、より一層楽しく演出できます。

​わくわく12ヵ月 
​わくわく12ヵ月 
​わくわく12ヵ月 
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昭和23年(1948) 

瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路の姿に、映画や小説で知ったハワイのイメージを重ねて作詞した。

昭和24年(1949) 

石坂洋次郎原作の日本映画『青い山脈』の主題歌として1発表された曲である。「大阪梅田から省線に乗って、京都に向かう途中のこと、日本晴のはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちに曲想がわいてきたとされる。

​わくわく12ヵ月 

昭和46年(1971)  

北山修が作詞、加藤和彦が作曲し2人の連名で発表した歌曲。

​わくわく12ヵ月 

昭和9年(1934) 

琉球王国時代の竹富島に実在した絶世の美女・安里屋クヤマと、王府より八重山に派遣され、クヤマに一目惚れした目差主(みざししゅ。下級役人)のやり取りを面白おかしく描いている。

​わくわく12ヵ月 

昭和60年(1985)  

小林によると、デモテープ時点ではいまいち気乗りのしない曲だったが、スタジオに入ってストリングスアレンジの事を知り、イントロを聞いた際に「日活映画の世界ではなく、西部開拓史、ジョン・ウェインの世界だ」と気付き、これならいけると思ったという。

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​いつでも夢を / 橋幸夫・吉永小百合

昭和37年(1962) 

歌手の橋幸夫と女優の吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」(作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)は、同年日本レコード大賞を受賞し、100万枚を突破した。互いに多忙なためレコーディングは別々で、ステージでのデュエットは数回のみ。

​いちご白書をもう一度/ バンバン

昭和50年(1975) 

フォーク・グループのバンバンがリリースしたシングル曲。バンバンとしては唯一のオリコン1位を獲得た。タイトルにある『いちご白書』とは、1970年に公開されたアメリカ映画で、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争の手記をもとに制作されたものである。

​いい日旅立ち/ 山口百恵

昭和61年(1986) 

阿木燿子・宇崎竜童のコンビによる楽曲が多かった中で、本作は既にアルバムでは曲を書いていた谷村新司をシングル初起用し作られた。累計売上は100万枚を記録し、累計では山口百恵にとって最大のヒット曲となった

​いとしのエリー/ サザンオールスターズ

昭和54年(1979) 

TBS系列のテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』の主題歌。世代を超えたファンが多い。

​わくわく12ヵ月 
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うみ

昭和16年(1941) 

「海は広いな大きいな」が歌い出しの『海(うみ)』は、作詞:林柳波、作曲:井上武士による日本の童謡・唱歌。

海をテーマにした唱歌といえば、同じく文部省唱歌の『われは海の子』、「松原遠く消ゆるところ」の歌い出しで親しまれている同タイトルの『海』などが思い出される。

​上を向いて歩こう / 坂本九

昭和36年(1961) 

坂本九の楽曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大現在においても日本人のみならずアジア圏歌手唯一となるシングル週間1位を獲得。後に数多くのアーティストによってカバーされ、いまだに外国人によるモノマネのネタにもされる。坂本や永六輔のメモリアルソングとしても用いられる。英題:スキヤキ、SUKIYAKI)

​わくわく12ヵ月 
美しい十代 / 三田明

昭和378年(1963)  

当時は流行っていた青春歌謡を代表する曲で、タイトルのように清純な10代の学生の学園生活が描かれている。

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​襟裳岬 / 森進一

昭和49年(1974) 

累計では約100万枚のレコード売上を記録した。森は本作で1974年の第16回日本レコード大賞と、第5回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞。作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎というフォーク全盛期を代表するコンビの作品。

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​お富さん / 春日八郎

昭和29年(1954) 

「お富さん」は軽い調子で替え歌のしやすいものを狙って作曲した。沖縄出身で奄美大島育ちの渡久地は、四分の四拍子のリズムのなかに八分の六拍子をアクセントとして加えたブギウギのリズムを基に、手拍子や軽快なヨナ抜き音階など沖縄音楽・カチャーシーの要素と、チンドン屋のリズムの影響を受けた奄美新民謡の要素を織り込みながら書いた曲

想い出の渚 / ワイルドワンズ

昭和41年(1966)  

全員が書いたフレーズを繋いだが、一番多く書いたと言うことで作詞は鳥塚繁樹、作曲は加瀬邦彦である。加瀬邦彦の12弦ギターで大ヒットし、100万枚以上を売り上げた。

およげたいやきくん / 子門真人

昭和50年(1975)  

フジテレビの子供向けの番組『ひらけ!ポンキッキ』のオリジナルナンバーとして発表、リリースされた童謡。

2018年5月現在、日本でレコード売り上げ枚数が最も多いシングル盤(フィジカル・シングル)とされている。

​わくわく12ヵ月 
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​岸壁の母 / 菊池章子

昭和29年(1954) 

ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になり映画作品のタイトルともなった。

​学生時代/ ペギー葉山

昭和39年(1964) 

当時「平岡精二クインテット」(平岡精二とブルー・シャンデリア)というジャズバンドを率いていた平岡精二の作詞・作曲によりペギー葉山のオリジナル曲として当初「大学時代」というタイトルで制作されたが、ペギーの「みんな大学に行く時代じゃないから」という理由により「学生時代」とタイトルを変更した。

​わくわく12ヵ月 
喝采/ ちあきなおみ

昭和47年(1972) 

亡くなってしまった恋人を思いつつステージで歌っているという設定の曲である。通算3作目のオリコントップ10入りを果たした。発売から翌年にかけてオリコン集計で通算80万枚を売り上げた。

ちあきは本楽曲で『第14回日本レコード大賞』(1972年)の大賞を受賞した。発売されてから3ヶ月でのレコード大賞受賞は史上最短記録である。

​神田川/ 南こうせつとかぐや姫

昭和48年(1973) 

文化放送で放送作家をしていた喜多条忠に、新曲のキャンペーンで訪れていた南こうせつが作詞を依頼した。喜多条は帰宅後、新聞の折込チラシの裏に自らの学生時代のほろ苦い想い出を綴り、歌詞を作った。仕上がった作品を電話口で伝えたところ、南は聞いた瞬間にもう旋律が浮かんでいたという。

川の流れのように / 美空ひばり

昭和64年(1989) 

日本の歌手、美空ひばりの生前最後に発表されたシングル作品である。「自分の歌から遠い若い世代の人たちにメッセージを残したい」というひばりの意向により、作詞には若者から人気を得ていた秋元康が起用された。ひばりは自分の人生と本楽曲を重ねて「1滴の雨が木の根を伝い、せせらぎが小川になる。水の流れがあっちにぶつかり、こっちに突き当たりしながらだんだん大きくなる。やがて大河になり、ゆっくりと海にたどり着く」と発言し、本楽曲のシングルカットを希望。

​わくわく12ヵ月 
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​銀座カンカン娘 / 高峯秀子

昭和24年(1949) 

すなわち終戦の4年後につくられた同名の映画の主題歌として主演女優の高峰秀子(たかみねひでこ)が歌った曲である。 美空ひばりから井上陽水まで、ジャンルを問わず数多のシンガー達がカヴァーしている。

​銀座の恋の物語 / 石原裕次郎・牧村旬子

昭和36年(1961) 

石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲である。通称「銀恋(ぎんこい)」。また、1962年3月に石原裕次郎と浅丘ルリ子とのコンビで映画化!共演は大ヒットとなり、カラオケで歌い継がれる名曲と共に、昭和を代表するまさに「誰もが知っている」思い出の国民的映画となった大人気作!上記を主題歌とする同名の映画『銀座の恋の物語』(日活)が公開された。

​君といつまでも/ 加山雄三

昭和41年(1966) 

編曲が気に入った加山が、嬉しさのあまり「いやあ、幸せだなぁ」と呟いた。そのことから、後に流行語となる台詞が間奏に収録されることとなった。

300万枚を超える大ヒットになり1966年の第8回日本レコード大賞の特別賞となった。

​わくわく12ヵ月 
北の宿から / 都はるみ

昭和51年(1976)  

140万枚を超える売り上げを記録し、都にとっては、「アンコ椿は恋の花」、「涙の連絡船」に続いて3曲目のミリオンセラーシングルとなった。

​北国の春 / 千昌夫

昭和52年(1977) 

歌手千昌夫・タイトルにもある「北国」がどこを指しているか、具体的な地名は歌詞中に登場しないが、作詞者のいではくが後に自身の故郷(長野県南牧村)がある信州の情景を描いたと語っている。一方作曲者の遠藤実は、いではくの詞をもとに自身の故郷(少年時代を過ごした疎開先)の新潟県をイメージして作曲したという。

​わくわく12ヵ月 
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​黒い花びら / 水原弘

昭和34年(1959) 

水原弘のデビューシングルにして代表曲のひとつであり、また第1回日本レコード大賞の受賞作品としても知られる。作詞は永六輔、作曲は中村八大による。

ポール・アンカの「君は我が運命」をヒントに作曲された。

黒猫のタンゴ/ 皆川おさむ

昭和44年(1969) 

イタリアの童謡(原題は"Volevo un gatto nero")に日本語の詞を付けて邦題を「黒ネコのタンゴ」とし、ひばり児童合唱団に日本語版リリースのオファーが来たことから皆川おさむが歌うことになった。シングル260万枚

くちなしの花/ 渡哲也

昭和48年(1973) 

90万枚を売り上げる渡自身最大のヒット曲となった。​

渡や石原裕次郎がこの曲を始めてみたとき流行るとは全く考えておらず、石原裕次郎も「この曲が流行ったら銀座を逆立ちしてやる。」と言っていた。

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​高原列車は行く / 岡本敦郎

昭和29年(1954) 

「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり現在までの岡本敦郎の代表曲となった。その後も「ピレニエの山の男」「自転車旅行」「若人スキーヤー」などヒットを飛ばした。多くのラジオ歌謡を吹き込んだことから、ミスターラジオ歌謡の異名を持つ。

NHK紅白歌合戦に7回出場している。

​わくわく12ヵ月 
​ここに幸あり / 大津美子

昭和31年(1956) 

師である飯田が作曲し高橋掬太郎が作詞した同名映画の主題歌「ここに幸あり」が空前の大ヒット。ハワイ、ブラジルなどの多くの日系人の間で今日まで愛唱されている。NHK紅白歌合戦に7回出場している。歌手 大津 美子

​恋のバカンス / ザ・ピーナッツ

昭和38年(1963)  

ザ・ピーナッツ歌唱の日本の歌謡曲である。ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつてなかったほどのスウィング感に満ちあふれた楽曲で、シングル発売直後より話題となり、大ヒット曲となった。後年に多くの歌手によってカバーされており、それらについても本項で記述する。

​高校三年生 / 舟木一夫

昭和38年(1963) 

デビューシングルでいきなりシングル発売1年で売上100万枚を越す大ヒット曲となり、舟木一夫はこの曲で一躍スター歌手となった。累計売上は230万枚

​わくわく12ヵ月 
​小指の思い出  / 伊東ゆかり

昭和42年(1967)  

有馬三恵子作詞 鈴木淳作曲 伊東ゆかり唄 

この曲で『NHK紅白歌合戦』に出場。その年の日本レコード大賞歌謡賞を受賞するなど、一世を風靡した。さらに、中尾ミエ、園まりと結成した“スパーク3人娘”としても活躍。

​恋の季節 / ピンキーとキラーズ

昭和43年(1968) 

ピンキーとキラーズの楽曲で、デビューシングル。累計売上は270万枚を記録。なお、1969年2月には、同名の映画が奈美悦子主演によって松竹から公開された。

心もよう/ 井上陽水

昭和48年(1973) 

シングル発売に際してはどちらをA面曲にするかで井上は「帰れない二人」を推したが、ポリドールのプロデューサーで小椋佳の担当も務めていた多賀英典は「心もよう」を推した。両者協議の結果「心もよう」がA面曲となり、タイトルも多賀が名付けたものである。B面収録の「帰れない二人」はRCサクセションの忌野清志郎との共作であった。

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​斉太郎節 / 三橋美智也

昭和2年(1927) 

宮城県の民謡。元は松島湾一帯で歌われた大漁唄。大正~昭和にかけて後藤桃水が他の唄とともに「大漁唄い込み」としてまとめ、全国的に有名になった。元は南部民謡「鋳銭坂」による銭吹き唄であるとされる。

​わくわく12ヵ月 
三百六十五歩のマーチ / 水前寺清子

昭和43年(1968) 

題名の通り一日一歩ずつ歩み続ける人生を励ますマーチ(行進曲)調の曲である。水前寺が不本意ながらリリースした楽曲であるが、「日本が自信に満ちた時代だった」という高度経済成長の時流にマッチし、累計では100万枚を越える売り上げ(ミリオンセラー)となり、結果的に水前寺の最大のヒット曲にして水前寺の代表曲となった。

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上海帰りのリル / 津村謙

昭和26年(1951) 

映画の主題歌である。ある夜謙吉がクラブのダンサー、竹本リルを救ってやったことから、温い友情が育てられた。しかし終戦前後リルは姿を消した。

情熱の花 / ザ・ピーナッツ

昭和34年(1959) 

ザ・ピーナッツの歌唱で日本で発表された国外楽曲カヴァーの楽曲である。

この曲はベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジの上で使用している。

​知床旅情 / 森繫久彌

昭和35年(1960) 

昭和の名曲「知床旅情」俳優・森繁 久彌が作詞、曲そしてうたの出だしですね。

 知床といえば「知床旅情」というように、知床の代名詞的存在になって いる歌。知床が全国的に知名度があがったのも、この歌がきっかけの一つ となっています。

島のブルース / 三沢あけみ

昭和38年(1963) 

三沢あけみとマヒナスターズの歌唱。

鹿児島県の離島「奄美大島」をテーマにしたご当地ソングの楽曲である。奄美大島を舞台とした曲であるため、奄美群島の伝統民謡の島唄系統のアーティストに好んでカバーされる傾向にある。

​わくわく12ヵ月 
​四季の歌/ 芹洋子

昭和38年(1963) 

人から人へ、口伝えによって広まり、日本で国民的人気の楽曲となった荒木の作詞家デビュー作。日本の歌百選の1曲。

​幸せなら手をたたこう / 坂本九

昭和39年(1964) 

東京オリンピックの年に坂本九さんが歌って大ヒットした歌。「幸せなら 手をたたこう」は、"歌で世の中を平和にしたい。苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という多くの人々の願いと共に、さまざまな経緯を経て世界中に広がって行きました。

白いブランコ/ ビリーバンバン

昭和44年(1969) 

浜口庫之助の指導を受け、紆余曲折を経てビリーバンバンは孝と進による兄弟デュオとして、「白いブランコ」でキングレコードよりメジャーデビュー、20万枚を超える売上となり、一躍フォークシンガーの代表的存在として人気を得る。

​昭和枯れすすき/ さくらと一郎

昭和49年(1974) 

発売した当初はレコードの売れ行きが伸び悩んでいたが、同年放送開始された『時間ですよ昭和元年』(TBS系列)の挿入歌として、細川俊之演じる十郎と大楠道代演じる菊との居酒屋の場面に効果的に使われたことにより、有線放送を中心に人気に火が付き、発売約9か月後の1975年5月5日から3週間、オリコンシングルチャート1位を獲得した。

シクラメンのかほり/ 布施明

昭和50年(1975) 

小椋佳が第一勧業銀行赤坂支店に勤めていた際、取引先の会社で休憩していた時に見た、自身には馴染みのない花であったシクラメンをヒントに思い浮かんだものである[2]。布施の担当マネジャーだった小坂洋二が小椋佳の『淋しい時』というアップテンポの曲を持って来た際に『もう一曲、カップリングが欲しいから』と布施が依頼した所、小椋から出てきた楽曲がこの曲だった。

時代 / 中島みゆき

昭和50年(1975)  

ヤマハ音楽振興会主催の『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』、同年1975年11月16日の『第6回世界歌謡祭』にてグランプリを受賞した。同年にシングルが発売され、20万枚のヒットとなった。

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​好きになった人 / 都はるみ

昭和43年(1968) 

20万枚の売り上げを記録するヒット曲となり、都はるみの代表曲として知られている。

作詞:白鳥朝詠/作曲・編曲:市川昭介

​わくわく12ヵ月 
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戦争を知らない子供たち/ ジローズ(杉田二郎)

昭和45年(1970) 

世はベトナム戦争の真っ最中であり(武力衝突開始1960年、終結は1975年。なお不正規戦争で宣戦も講和もない)、憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といった形で協力していた。日本国内でも、一部の文化人や学生を中心に、反戦平和運動は盛り上がりを見せていた。そのような中で発表されたこの曲は、日本における代表的な反戦歌となった。

せんせい/ 森昌子

昭和47年(1972) 

オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ系)から歌謡界にデビューした同世代(同い年、同学年)の森昌子、桜田淳子、山口百恵の3人の中学三年生当時(1973年度)の呼び名である。

瀬戸の花嫁 / 小柳ルミ子

昭和47年(1972) 

小柳ルミ子の4枚目のシングル。「わたしの城下町」に次ぐヒットとなり、2作目の週間オリコンチャート首位を獲得した。瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。 

青春時代 / 森田公一

昭和51年(1976) 

小柳ルミ子の4枚目のシングル。「わたしの城下町」に次ぐヒットとなり、2作目の週間オリコンチャート首位を獲得した。瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。 

​わくわく12ヵ月 
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ソーラン節 / 

北海道の日本海沿岸の民謡。発祥地は後志の積丹半島から余市郡にかけての地域[注釈 1]。ニシン漁の歌として有名である。

​旅の夜風 / 霧島昇・ミスコロムビア

昭和13年(1938) 

「悲しき子守唄」とのカップリングでコロムビアレコードから発売された。松竹映画「愛染かつら」の主題歌でもあり、当時としては80万枚を超す驚異的なヒットを飛ばした歌である。

​わくわく12ヵ月 
太陽がくれた季節 / 青い三角定規

昭和47年(1972) 

日本コロムビアから青い三角定規歌唱によりシングル盤が発売された。日本テレビ系列で放送された青春ドラマ『飛び出せ!青春』の主題歌として採用され、100万枚を超えるヒットとなった。

炭坑節/ 

大正2年(1913) 

福岡県に伝わる民謡である。現在の田川市が発祥といわれる。

​わくわく12ヵ月 
小さい秋みつけた / ボニージャックス

昭和30年(1955) 

NHKの特別番組『秋の祭典』の楽曲の1つとして作曲され、伴久美子がソロで歌った。番組内限定の曲であり、当初はレコード化されなかったが、1962年にボニージャックスの歌唱でレコーディングされ、同年末の『第4回日本レコード大賞』で童謡賞を受賞した。

 小さな日記 / フォー・セインツ

昭和43年(1968) 

デビュー・シングル「小さな日記」が20万枚の大ヒット。

​千曲川 / 五木ひろし

昭和50年(1975) 

五木ひろしが発売したシングルである。五木ひろしの楽曲としては1971年の「よこはま・たそがれ」(神奈川県)、1984年の「長良川艶歌」(岐阜県)と同様に、長野県を舞台にしたこの千曲川がご当地ソングとしてヒットした。

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​月がとっても青いから / 菅原都々子

昭和30年(1955) 

歌手の菅原都々子が大ヒットさせた

作詞:清水みのる、作曲:陸奥明。陸奥が娘の都々子のイメージチェンジを賭けて売り出し、現在の市場規模の30分の1の時代、100万枚を超える大ヒットとなった。この曲で菅原は歌手としての地位を不動のものにした。同年日活製作の同名の映画が公開された。

​わくわく12ヵ月 
津軽海峡冬景色 / 石川さゆり

昭和52年(1977) 

東京を発って本州最北端の青森県にたどり着き、津軽海峡をこえて北海道に渡る人々を描いた阿久悠作詞の叙事詩に、三木たかしが作曲・編曲して生まれた歌謡曲。これを演歌歌手の石川さゆりが歌った。

​わくわく12ヵ月 
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​天使の誘惑/ 黛ジュン

昭和43年(1968) 

黛ジュンの4枚目のシングルである。第10回日本レコード大賞受賞曲。

​てんとう虫のサンバ / チェリッシュ

昭和48年(1973) 

累計売上はミリオンセラーで、チェリッシュ最大のヒット曲となった。

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​東京ラプソディー / 藤山一郎

昭和11年(1936)  

テイチクから藤山一郎の歌唱によって発売された。作詞は門田ゆたか、作曲は古賀政男。昭和モダン末期の東京を歌ったフォックストロット調の作品で、35万枚を売り上げヒットした。藤山主演による同名の映画も制作されている。

​東京ブギウギ / 笠置シヅ子

昭和23年(1948) 

服部良一が笠置シヅ子のために書いた最初のブギです。一種の社会現象ともいえるヒットとなりました。この曲のパロディは新聞の見出しなどにも頻繁に使われ、「占領下にあることを日本がどう消化していくか」という見本になった感もあります。

​東京のバスガール / コロムビア・ローズ

昭和32年(1957)  

日本コロムビアから発売された流行歌のシングル盤。作詞・丘灯至夫、作曲上原げんと、歌唱は初代コロムビア・ローズである。この時代には、まだ路線バスには必ず女性の車掌が乗車しており、切符を切ったり、体が不自由になったお年寄りの乗り降りを助けるなど、乗客の世話に当たっていた。

​わくわく12ヵ月 
​東京だョおっ母さん / 島倉千代子

昭和32年(1957)  

島倉千代子のシングル。通算150万枚を売り上げる大ヒットとなり、島倉の代表曲の一つに数えられる。同年に公開された同名の映画では島倉自身が主演を務めた。

遠くへ行きたい / ジェリー藤尾

昭和37年(1962)  

時代とともにさまざまなジャンルの歌手に歌い継がれている。(作詞:永六輔、作曲:中村八大)

どうにもとまらない / 山本リンダ

昭和47年(1972)  

これまでの路線を一新し、切れ目の入ったパンタロンや赤いブラウスによるヘソだしルック、過激な振り付けなどを披露して、アクション歌謡の先駆けとされている

時の過行くままに / 沢田研二

昭和50年(1975)  

シングルでは「危険なふたり」、「追憶」に次いで3曲目のオリコン1位を獲得した。

時の流れに身をまかせ / テレサテン

昭和61年(1986)  

「つぐない」、「愛人」に続き、作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのコンビ作品の3曲目である。なお前2作品はマイナー調の曲だったが、同曲はメジャー調に仕上がっている。第19回日本有線大賞および、第19回全日本有線放送大賞(年間)で、それぞれ史上初となる3年連続のグランプリを受賞した。なお、東西の有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は彼女のみである。

​わくわく12ヵ月 
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夏の思い出

昭和24年(1949)  

作者は幼少のころ岩手山の近くに住んでいたが、そこはミズバショウの咲く地域だった。そして1944年(昭和19年)、たまたま尾瀬を訪れた。そこで目にしたのが、一面に咲き乱れるミズバショウだったのである。そのときの気持ちを「夢心地」とのちに表現している。戦後すぐ、NHKから「夢と希望のある歌をお願いします」と依頼された。思い浮かんだのが尾瀬の情景だった。その時の感動を詩にしたのが「夏の思い出」である。

南国土佐を後にして / ペギー葉山

昭和34年(1959)  

原曲は、中国大陸中部に出兵した陸軍朝倉歩兵236連隊(鯨部隊)内で自然発生的に生まれ、歌われていた曲とされる(同部隊には高知県出身者が多かった。後半部に土佐民謡「よさこい節」を歌いこんでいる。戦後、復員兵らによって高知県にもたらされ、古里ソングとして定着した。そして、後述のペギー葉山盤の大ヒットで全国的に知られるようになった

涙の連絡船 / 都はるみ

昭和40年(1965)  

都はるみの11枚目のシングル。前年に発売された『アンコ椿は恋の花』以来2作目となるミリオンセラーとなり、都は本楽曲で1965年の「第16回NHK紅白歌合戦」に紅白初出場を果たした。

​浪花節だよ人生は / 細川たかし

昭和51年(1976)  

最初は小野由紀子の歌唱によりシングルのB面曲として発表された。その後、この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという木村友衛が藤田に直訴して1981年(昭和56年)に歌い始めると、地道なキャンペーンの努力が実り徐々に人気を獲得するようになった。これを受けて歌手16人、レコード会社13社による競作としてレコードが制作され、1984年(昭和59年)にその人気は最高潮に達した

​わくわく12ヵ月 
長崎は今日も雨だった / 内山田洋とクールファイブ

昭和44年(1969)  

内山田洋とクール・ファイブのメジャーデビュー曲にして、最大のヒット曲。内山田洋とクール・ファイブは長崎市内のグランドキャバレー『銀馬車』の専属バンドで、ラテンやジャズなど幅広いレパートリーを有していた。

涙の操 / 殿様キングス

昭和49年(1974)  

発売から3ヶ月余りでオリコンのトップ10に初登場。6週後には1位を獲得し、そこから9週連続で1位を獲得。累計売上は約250万枚

​なごり雪 / イルカ

昭和50年(1975) 

伊勢正三が作詞・作曲したかぐや姫の楽曲。イルカによるカバー・バージョンが大ヒットを記録し、世代を超えて歌い継がれている。

​は
​バラが咲いた / マイク真木

昭和41年(1966)  

マイク眞木が歌ったフォークソング。本曲のレコード・ジャケットには『日本のモダンフォークがうまれた!』とキャッチフレーズが付されていたが、本曲のヒットが契機となって日本の音楽界にフォーク・ソングブームが広がっていくこととなる。

​ひ
​琵琶湖周航の歌 / 加藤登紀子

昭和8年(1933)  

最初のレコーディングが行われた年。第二次世界大戦後、多くの歌手によって歌われたが、特に1971年(昭和46年)に加藤登紀子がカヴァーしたレコードは大ヒットを記録した。歌の舞台となった琵琶湖畔には、複数の歌碑が立っている。

​ふ
​ふたりの大阪 / 都はるみ

昭和56年(1981) 都はるみが歌うデュエットソング。

​わくわく12ヵ月 
ブルーシャトー / ブルーコメッツ

昭和42年(1967)  レコード売上150万枚の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。もともと、作曲者の井上忠夫が木の実ナナに提供する作品を書いているうちに出来たものである。

​わくわく12ヵ月 
ブルーライトヨコハマ / いしだあゆみ

昭和43年(1968)  

いしだあゆみの代表曲の一つであり、累計売上は150万枚を超える売り上げを記録するミリオンセラーとなった。

​ほ
​星のフラメンコ / 西郷輝彦

昭和41年(1966)  同年2月にヨーロッパを旅行した西郷は、スペインで鑑賞したフラメンコに感動し、本人曰く「猛烈なリズムにシビレてしまった」。洋行から帰国した西郷が、挨拶で訪れたソングライターの浜口庫之助邸にて、本場のフラメンコを観た感動をそのまま話すと、浜口はちょうどそのころ西郷の新曲を制作する準備に入っていたことを明かし、両人とも新曲をフラメンコのリズムで制作することで意見が一致したという

浜口の作詞・作曲により曲が完成し、同年7月1日にシングルレコードが発売されると、わずか2か月で50万枚を突破する大ヒットとなった。

​わくわく12ヵ月 
星影のワルツ / 千昌夫

昭和41年(1966)  

発売当初は売れ行きは低調であったが、千自身がこの曲を気に入って歌い続け、全国の有線放送に働きかけてヒットへ導いた。1967年頃から各地の有線放送で火がつきはじめ累計売上は250万枚

​ま
真っ赤な太陽 / 美空ひばり

昭和42年(1967)  

グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒットを飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツの5人を従えて歌った楽曲。本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった

​み
​みかんの花咲く丘

​昭和21年(1946) 

終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。最初の詞では母であったが、発表当時は戦争で母親を失った子供も多かったことに配慮し、姉であれば嫁いでいった姉のことを思い出していると解することもできるだろうとして歌詞が改変された。

水色のワルツ / 二葉あき子

昭和25年(1950)  

二葉あき子が歌い、原孝太郎と東京六重奏団が演奏したレコードがコロムビアから販売された。

港町十三番地 / 美空ひばり

昭和32年(1957) 

美空ひばりが生前好んで歌ったマドロス曲の一つであり、ひばりの故郷である横浜市と隣の川崎市が舞台になっている。

見上げてごらん夜の星を / 坂本九

昭和38年(1963)  

1960年に初演されたミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の劇中主題歌。作詞永六輔、作曲いずみたく。1963年、坂本九のカバーがヒットし第5回日本レコード大賞作曲賞を受賞。坂本の代表曲であり、後に数多くのアーティストにカバーされた。

昔の名前で出ています / 小林旭

昭和50年(1975)  

発売当時の1975年1月以降暫くは鳴かず飛ばすだったが、小林自らが全国のキャバレーなどをドサ回りするなど地道にプロモーションを続けた結果、2年後の1977年に入ってから徐々に売り上げを伸ばし、ロングセラーとなった。累計売上は200万枚を突破した

​め
​めだかの学校

昭和26年(1951) 

NHKのラジオ番組「幼児の時間」で発表された。ある日、買い出しのために息子と山を降りて荻窪用水周辺を通りかかると、息子がメダカを見つけた。息子が大声を上げるとメダカが姿を隠してしまったので、茶木が「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、息子は「大丈夫、またくるよ。だってここはメダカの学校だもん」と答えたという。

​も
​木綿のハンカチーフ / 太田裕美

昭和50年(1975) 

太田裕美のヒット曲であり、累計売上枚数は、オリコンの統計では86.7万枚、ミュージック・リサーチ社の発表では150万枚以上。

​や
柔 / 美空ひばり

昭和39年(1964) 

発売された1964年に開催され、初めて柔道が正式競技に採用された東京オリンピックともあいまって、翌1965年にかけて爆発的にヒットした。発売から半年足らずで180万枚以上を売り上げる大ヒットとなったが、これはひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となっていた。

​わくわく12ヵ月 
山小屋の灯 

昭和22年(1947) 

 1942年に高峰秀子のために作曲したが、当時の米英音楽の規制により「米英的なメロディ」として未発売に終わった「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。

​ゆ
有楽町で逢いましょう

昭和32年(1957) 

この楽曲の作成の経緯は、そごう(本社/大阪府)の東京への進出の際に、出店地候補の一つとして有楽町を検討していた事から始まる。1950年代前半当時の有楽町は闇市の面影もあり、現在ほど活気が無かったものの、人通りは徐々に増え続けていた事もあり、有楽町も出店候補先に挙げられていた。同年5月に開店した有楽町そごうのコマーシャルソングとしても使用された楽曲でもある。

夜霧よ今夜も有難う / 石原裕次郎

昭42年(1967) 

浜口庫之助が過去の裕次郎映画でのヒーロー像をイメージしながら作詞作曲した曲であった(発売は1967年2月、テイチクレコードから)が、映画はこの曲を元にタイミングを合わせて新たに企画されたものである。主題歌もヒットし、裕次郎の代表的なレパートリーとして後年まで歌われている。

​ら
​ラブユー東京

昭和41年(1966)  

黒沢明とロス・プリモスの代表曲とされる。発売から半年後、山梨県甲府市のホステスの間で「ラブユー東京」が話題になり、また作曲した中川博之と友人で後に推理作家としてデビューする内田康夫が制作に係わった深夜ラジオで連夜「ラブユー東京」を流し、次第に知名度が上がる。

​り
リンゴの唄

昭和20年(1945) 

映画「そよかぜ」の主題歌とて並木路子が澄んだ声で歌う「リンゴの唄」が大ヒット。

​この歌の明るさは復興に向かう日本人を励ました。当時大工の日給が35円、リンゴは闇市で1個5円、「リンゴ高いや、高いやリンゴ」という替え唄にもなった。

​わくわく12ヵ月 
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